フランツ・リスト
フランツ・リスト(Franz Liszt 1811年10月22日 ~ 1886年7月31日)は19世紀の音楽界を代表するピアニストであり、作曲家としてもその名を馳せました。彼の生涯、音楽への深い情熱と宗教的な感受性が交錯する中で展開されました。
1811年、オーストリア帝国領、ハンガリー王国《現ライディング》のドボルヤーンで生まれたリストは幼少期から音楽に囲まれた環境で育ちます。彼の父アーダムはエステルハージ侯家に仕える音楽家であり、フランツにピアノの手ほどきをしました。
フランツは5歳でピアノに触れて以来、幼い頃から音楽の才能を示し、8歳で作曲を始めると翌年には既に公の場でピアノを演奏していました。
彼が9歳の時、ショプロンとポズソニー(現在のブラチスラヴァ)で行われたコンサートはハンガリーの著名人たちから大きな支持を受け、彼の音楽教育のための資金提供につながりました。
この支援を受けてリストの父は仕事を休み、息子を音楽の中心地ウィーンへと連れて行きました。ウィーンではベートーヴェンの弟子カール・ツェルニーにピアノを、そしてアントニオ・サリエリには作曲を学ぶ機会が与えられました。
ウィーンでの期間、リストは多くのコンサートを成功させ、その卓越した才能を広く認められるようになりました。彼の演奏はベートーヴェンにも聴かれたとされ、ベートーヴェンがリストの額にキスをしたという逸話も伝えられていますが、その真偽は不明です。しかし、リストがベートーヴェンに会ったこと、そして彼から影響を受けたことは事実であり、彼の音楽人生において重要な出来事の一つでした。
1823年、パリへの移住後、音楽院での学びは叶わなかったものの、パーエルやレイハといった著名な音楽家たちからの指導を受け、音楽技術を磨いた経験は音楽家としての礎を築きました。
特にオペラ「ドン・サンシュ」の上演はその後のキャリアにおいて重要な転機となりましたが、リストの真の才能が開花したのはピアニストとしての道を歩み始めてからとなります。
イギリスやフランスを巡る演奏旅行を経て彼の演奏技術は劇的に向上し、同時にフランス語の習得も彼の演奏旅行において重要な役割を果たしました。
リストは音楽に対する熱い情熱を幼い頃から抱いていましたが、彼の道のりは決して平たんなものではありませんでした。1828年にはピアノ教師として働いていたリストですが、生徒との恋愛が原因で人生が一変します。この恋は父によって終わらされ、その影響でリストは精神的に大きな打撃を受けますが、この困難な時期を乗り越えた後、自己啓発に力を入れ始めます。
また、1830年の七月革命の影響を受けて彼は革命交響曲を構想するに至ります。
リストの音楽キャリアにおいて1830年代は特に重要な転換期となり、この時期に彼は3人の偉大な音楽家との出会いがありました。これらの出会いはリストの音楽スタイルやキャリアに決定的な影響を与えました。
最初の出会いは1830年代の初め、エクトル・ベルリオーズとのものでした。
ベルリオーズの「幻想交響曲」を聴いたリストはその音楽の力と新しさに圧倒され、ベルリオーズの音楽に深く魅了されたリストは彼の作品をピアノ用に編曲することでその素晴らしさをより広く伝える役割を果たしました。ベルリオーズの音楽からはロマン派の情熱や悪魔的な要素を吸収し、自身の音楽に取り入れることになります。
次に、1831年にはヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニとの出会いがありました。
パガニーニの驚異的な超絶技巧と表現力に触れたリストは、ピアノ演奏においても同様の革新を目指すようになります。パガニーニから受けた影響はリストが後に作曲した「ラ・カンパネラ」をはじめとする多くの作品に反映されています。
また、同時期にフレデリック・ショパンとも出会い、ショパンの詩的でメロディアスなピアノスタイルに深く感銘を受けました。ショパンの音楽からは繊細さや表現の豊かさを学び、リスト自身の演奏や作曲に生かすことになります。
これら3人の音楽家との出会いはリストにとって大きな転機となり、彼の音楽スタイルの発展に大きく寄与しました。リストはこれらの影響を受けつつも独自の音楽世界を構築し、後世に大きな足跡を残すことになります。
リストの音楽性において、ベルリオーズ、パガニーニ、ショパンといった三人の巨匠との出会いは彼のキャリアにおける転換点となりました。これらの音楽家との交流を通じてリストは技術的な革新と表現の幅を拡げ、ロマン派音楽の精神と革新性を彼の作品に深く根付かせることができました。特にパガニーニのヴァイオリン演奏はリストにピアノにおける技術的な可能性を追求するきっかけと言えます。
これらの交流はリストが音楽作品の創作において、前例のない技術的な高みと感情的な深みを追求する基盤を形成しました。
彼の音楽旅程は1834年に始まり、この時期にリストはアルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩からインスピレーションを受けた『詩的で宗教的な調べ』を含むいくつかの作品を発表し、独自の抒情的スタイルを築き上げました。
リストはパガニーニやベートーヴェン、シューベルト、ベルリオーズなどの作品をピアノ用に編曲することで、これらの作曲家の音楽をより広く紹介しました。彼の編曲はこれらの音楽家の作品を新たな聴衆に届ける重要な役割を果たし、音楽史における彼らの地位を高めるのに寄与しました。
リストのピアニストとしての才能もまた彼の名声を不朽のものにし、ソロ・リサイタルという形式を生み出しました。
また、リストはオペラに基づいた幻想曲を数多く作曲し、これらの作品を通じて当時の人気オペラの魅力をピアノ音楽に取り入れました。これらの幻想曲はコンサートでの彼の演奏を聴衆に大いに楽しませるものでした。
リストはピアノ作品だけでなく歌曲も手掛けました。
1839年から1840年にかけてのハンガリー訪問は彼にとって大きな転機となりました。
この訪問がきっかけでロマ音楽(ロマ民族(ジプシー)を中心に発達してきた音楽)に深い関心を持つようになり、その影響はハンガリー狂詩曲や他のハンガリー様式の作品に生かされました。
また、1845年にはベートーヴェン音楽祭のためのカンタータや合唱とオーケストラのための作品をはじめ、いくつかの合唱作品も創作しています。
リストはヴァイマールに移住し、そこで自由な創作活動を行う環境を得ることができ、宮廷オーケストラの指揮者としても活動や多くのオペラやコンサートを成功させています。この時期のリストは非常に生産的であり、彼の代表作の多くがこの時期に生まれています。中でも「ファウスト交響曲」や「ダンテの神曲交響曲」、「ピアノ・ソナタ ロ短調」などは、後の音楽界に大きな影響を与える名曲が誕生しています。
リストの作品は「ピアノ協奏曲第1番変ホ長調」や「第2番イ長調」など、ピアノとオーケストラのための作品にも及び、これらの作品は改訂を重ねながら更なる高みを見せ、リストの音楽的才能と革新性を示しています。また、「死の舞踏」や「超絶技巧練習曲」など、ピアノ独奏のための作品もこの時期に作曲されており、彼のピアニストとしての技術の高さもうかがえます。
リストのヴァイマール時代は彼の音楽キャリアにおいて最も重要な時期の一つです。
ヴァイマールは19世紀中盤、前衛的な作曲家たちにとって現代音楽を追求する場として重要な地位を占めていました。リストは新ドイツ楽派の組織化と標題音楽の理念を推進し、ピアノ曲「ソナタ ロ短調」を含む多数の作品を創り出しました。この都市ではフランツ・リストが中心人物となり、新しい音楽の潮流を牽引しました。
リストはその革新的なアイデアと共にリヒャルト・ワーグナーといった同時代の作曲家たちを支援し、彼らの才能が開花するよう尽力しました。ワーグナーの《ローエングリン》の初演を成功させ、その存在感を発揮しました。
このような動きは伝統的な音楽界やヴァイマール宮廷内で必ずしも歓迎されるわけではありませんでした。
また、リストの私生活に対する批判もありました。彼は当地の大地主のカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人との関係で公然と同居し、これがヴァイマール社会の保守的な層からの反発を招いたのです。
進歩的な芸術観と私生活は時に保守的なヴァイマール市民との間に緊張を生じさせたのです。
リスト自身も個人的な試練に直面していました。彼の息子ダニエルが若くしてこの世を去り、その悲しみから「死」のためのオーケストラ作品を作曲しました。また、カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人との結婚を目指しローマへ向かうも、教皇からの離婚認可が取り消され、二人の関係は結実することなく終わりを迎えました。
リストはその革新的な作曲技法と共に深い宗教的情熱で知られています。
彼のローマ滞在期間は、彼の音楽キャリアにおける重要な転換点となりました。リストはオラトリオ『聖エリザベートの伝説』や『キリスト(クリストゥス)』を含む、数多くの宗教的作品を創作しました。これらの作品は当時の感傷的な音楽スタイルから一線を画し、より直接的で心を打つ新しい宗教音楽の形を目指していました。
リストが宗教音楽に対して持っていた独特の視点はグレゴリオ聖歌への関心からも明らかで、19世紀の他の多くの音楽家が見過ごしたこの古典的な形式に彼は新たな価値を見出しました。
しかし、この革新的なアプローチは当時の教会当局からは必ずしも歓迎されなかったため、彼の多くの宗教作品は彼の死後長い間、世に出ることはありませんでした。
また、1867年にはハンガリー戴冠式ミサ曲を作曲し、これは彼の故郷ハンガリーとの絆を再確認する機会となりました。しかし、個人生活では娘コジマの不倫や家族間の諍いが彼を悩ませました。
これらの出来事は彼の音楽だけでなく、彼自身の人生においても重要な出来事でもありました。
フランツ・リストのローマでの滞在とその後の人生は彼の音楽に深い宗教的な次元を加え、個人的な試練を乗り越えながらも彼の創造性をさらに高めたと言えるでしょう。彼の音楽と人生は19世紀の音楽史において独特な足跡を残しています。
リストはその生涯で音楽の多面性を追求し続けたことで知られています。
彼の人生は単にピアニストとしての成功にとどまらず、音楽教育者、作曲家としても大きな影響を与えました。
リストが音楽界に残した足跡はその技術の革新性にあります。
彼のピアノ演奏はその時代におけるピアノ技術の頂点を極め、ロマン派音楽の新しい世界を開いたと評されます。彼の演奏はピアノの可能性を広げ、後世のピアニストたちに大きな影響を与えたのです。
また、リストは「交響詩」という形式を確立しました。
これは一つの音楽作品が特定の詩や物語を表現することを目指したもので、音楽による表現の幅を大きく広げることに貢献しました。このような革新的な試みはリストが単なる演奏家ではなく、音楽の可能性を広げる作曲家であったことを示しています。
さらに音楽教育においても独自の足跡を残しました。
彼は多くの生徒を指導し、その中から多くの優れた音楽家を輩出しました。リストの教育方法は技術的な指導だけでなく、音楽に対する情熱や表現の重要性を生徒たちに伝えることにありました。
彼の晩年はローマ、ブダペスト、ヴァイマールを拠点とする「三拠点に分かれた生活」を送りましたが、特にローマでの日々は内省的で精神的な平穏を求める作品を数多く生み出しました。《灰色の雲》や《悲しみのゴンドラ》などの作品はリストが音楽を通じて自らの内面と向き合い、人生の苦悩や死への覚悟を表現したものとされています。
後期の作品はクロード・ドビュッシーやベーラ・バルトーク、アルノルト・シェーンベルクの音楽スタイルを予見するような和声を取り入れたものでした。
リストはピアノの可能性を大きく広げ、楽器の表現力を高めることに成功しました。
また、ピアノ曲だけでなく、オーケストラ作品においても独自の「主題変換法」を用いることで、一つまたは二つの主題を変化させて全体の構成を築き上げる技法を確立しました。
これは後にリヒャルト・ワーグナーがオペラにおけるライトモチーフの技法へと発展させる基礎となりました。
1886年にローマを後にしたリストは、ヨーロッパ各地で自作のコンサートに参加し、45年ぶりに訪れたロンドンでは数回のコンサートが開催されました。その後もアントワープ、パリ、ヴァイマールを訪れ、7月19日にはルクセンブルクで最後の演奏を行いました。
バイロイトでのフェスティバル参加の直後、彼は健康を害し、高熱のために苦しみながらもワーグナーの公演に出席しましたが、彼の病状は肺炎へと悪化し、7月31日にこの世を去りました。リストの音楽と生涯は彼が直面した時代の変化と共に進化し、クラシック音楽の歴史において重要な役割を果たしたのです。
リストの名曲・代表曲
交響曲 | ファウスト交響曲 |
協奏曲 | 死の舞踏 ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調 |
交響詩 | 「前奏曲(レ・プレリュード)」 |
ピアノ曲 | ハンガリー狂詩曲 超絶技巧練習曲より「マゼッパ」「鬼火」 メフィスト・ワルツ第1番《村の居酒屋での踊り》 コンソレーション 第3番変ニ長調 「巡礼の年」よりエステ荘の噴水 「3つの演奏会用練習曲」より《ため息》 ピアノ・ソナタ ロ短調 パガニーニによる大練習曲より 第3番嬰ト短調「ラ・カンパネラ」 半音階的大ギャロップ |
名曲1 パガニーニによる大練習曲より 第3番嬰ト短調「ラ・カンパネラ」
フランツ・リストが作曲した『ラ・カンパネラ』は、彼の技術と創造性の極みを示す作品です。
この曲はパガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番の魅力的な最終楽章をピアノのために編曲したもので、その結果、リスト独自の作品として広く認識されています。
特に「パガニーニによる大練習曲」の一部として位置づけられるこの曲はピアニストにとって技術的な挑戦と美的な魅力の両方を持ち合わせています。
『ラ・カンパネラ』はその鐘のような響きから名付けられました。
リストの編曲能力とパガニーニのオリジナルの組み合わせにより、ピアノ音楽の中でも特に記憶に残る旋律の一つとなっています。演奏者は右手で広範囲にわたる音程を跳躍し、左手で複雑な和音を操る必要があり、これらの技術的要求によりこの曲は格別に高い難易度を誇ります。
また、リストの『ラ・カンパネラ』はフェルッチオ・ブゾーニやマルク=アンドレ・ハーメルンなど、多くの著名なピアニストや作曲家によって編曲されてきました。これはリストの作品が持つ普遍的な魅力と異なる解釈を可能にするその柔軟性を示しています。
初版と改版の存在はこの曲が時間を経てもなお、演奏家にとって挑戦の対象であり続けていることを物語っています。現代では「大練習曲」バージョンが一般に広まっており、その完成度ど緩和された難易度がさらなる人気を後押ししています。
リストの『ラ・カンパネラ』は、ピアノリパートリーの中でも独特の地位を占め、その技術的な難しさと音楽的な美しさで、多くの聴衆を魅了し続けています。
名曲2 「巡礼の年」よりエステ荘の噴水
フランツ・リストが晩年に作曲した『エステ荘の噴水』は、ピアノ音楽の中でも特に美しい水の描写で知られています。
この作品はイタリア・チボリにあるエステ荘の壮大な噴水を音楽で表現したものです。エステ荘自体がローマ近郊の豪華な城館であり、その庭園には多数の噴水があり、これがリストにインスピレーションを与えました。
『エステ荘の噴水』は水の動きや光の反射を繊細に捉えた作品であり、リストの卓越したピアノ技術と音楽的想像力が光る部分です。
この曲では水の流れや滴の躍動感を表現するために、高音のアルペジオやトレモロが巧みに用いられています。また、中間部にはヨハネ福音書からの「命の水」に関する引用が挿入され、作品に深い宗教的意味合いを加えています。
リストのこの作品は後の印象派音楽に大きな影響を与えました。
特にモーリス・ラヴェルの『水の戯れ』やクロード・ドビュッシーの『水に映る影』などの作品には、リストの水の表現手法が反映されています。リストが『エステ荘の噴水』で示した音楽的表現は水の自然な美しさとその変化に富んだ様子を捉えるための新しい方法を提供しました。
『エステ荘の噴水』はリストの音楽が次世代の作曲家たちに与えた影響のほんの一例です。
彼の音楽はピアノの表現力を極限まで引き出し、聴き手に強烈な印象を与えることに成功しています。この作品を通じてリストは音楽を通じた自然の描写における新たな表現を開拓したのです。
名曲3 超絶技巧練習曲より「マゼッパ」
フランツ・リストが1852年に発表した「超絶技巧練習曲」の第4番ニ短調「マゼッパ」は、バイロン卿の詩に触発された作品で、伝説のウクライナの英雄、イヴァン・マゼーパのドラマチックな物語を音楽で描いています。この英雄は馬に縛り付けられ、野生のままに放たれるという運命に直面します。リストはこの劇的なシーンをピアノの技術的な限界を押し広げる形で表現しました。
この練習曲はリストのピアノ作品の中でも特に技術的な難易度が高いことで知られています。
2オクターブの進行、交互に変化するオクターヴ、そして半音階によるテクスチャーの変化が特徴です。特にメインテーマがオクターヴで表現される部分では疾走する馬のイメージが強く感じられます。
また、左手でメインテーマのバリエーションを演奏し、右手でアルペジオを用いる箇所ではリストがどのようにして物語を音楽に変換したかが見て取れます。
「マゼッパ」はリストがピアノの技術的な可能性を探求した作品の一つです。
オクターブや重音の多用は演奏者にとって大きな挑戦を意味しますが、その難しさがこの作品の魅力を一層高めています。リストはこの練習曲を通じて、ピアノ音楽の表現力を新たな高みへと押し上げました。
「マゼッパ」の物語は、最終的に「彼は倒れ、そして王として立ち上がる」という壮大なフィナーレで締めくくられます。このフレーズはマゼーパの物語が単なる敗北ではなく、復活と栄光についても語っていることを示しています。リストはこの作品を通して英雄マゼーパの不屈の精神を見事に音楽で表現したのです。
音楽史において「マゼッパ」はリストの創造力と革新性を象徴する作品として位置づけられています。技術的な難しさにも関わらず、この作品は深い感動を与え、ピアニストたちにとっては演奏する価値のある挑戦的な作品となっています。
「のだめカンタービレinヨーロッパ」での取り上げられたこともあり、この曲は近年ますます人気を集めています。リストとショパンの間にはライバル意識があったとされ、ショパンはこの曲について「中身がすっからかん」と評したと言われており、美しい旋律、メロディアスな曲を至高としたショパンにとっては、ただただ超絶技巧を全面に出している曲としてしか評価しなかったのかもしれません。
名曲4 超絶技巧練習曲より「鬼火」
フランツ・リストの超絶練習曲集から、特に難易度が高いと言われる第5番「Feux follets」(鬼火)はピアニストにとって最も技術的な挑戦となる作品の一つです。この曲は変ロ長調で書かれ、1826年、1837年、そして最終的には1851年に改訂された三つのバージョンが存在しますが、一般的に演奏されるのは1851年のバージョンです。
「Feux follets」は、シューベルトの「冬の旅」に登場する鬼火から着想を得ており、リストはこの幻想的で不確かな存在を精密な技巧で表現しようと試みました。作品は半音階を基にし、重音や跳躍を駆使することで「超絶技巧」の名に相応しい難易度を誇ります。特に右手の迅速な複音パッセージと左手の広範囲にわたる断続的な音程は演奏者に高度な技術を必要とします。
この曲の最大の挑戦は、その風変わりで神秘的な性格を適切に表現することにあります。
ピアニッシモやレッジェリシモの指示が多用される複音セクションは、演奏を一層困難にします。
さらに、この作品は予測不可能な非対称のパッセージを含み、技術的なクライマックスに達した後にピアニッシモのアルペジオで終わります。
リストがヨーロッパ全土でヴィルトーゾとして名声を博したことはよく知られていますが「Feux follets」は彼の技巧を後世に伝える傑作の一つと言えるでしょう。調性はハ長調から始まり、平行短調を経て五度圏を逆回りし、変ロ短調で終わります。この標題は元々意図されたものではなく、出版時にリスト自身か出版者によって付けられました。
名曲5 半音階的大ギャロップ
フランツ・リストが1838年に作曲した「半音階的大ギャロップ 変ホ長調 S.219」は、ピアノ音楽のレパートリーの中でも特に技術的な挑戦が求められる作品の一つです。リスト自身もこの曲を非常に気に入っており、度々アンコールとして演奏したと伝えられています。
この曲の演奏はピアニストにとって高度な技術が要求される作品です。
特に右手で演奏される複数の箇所における16分音符のジャンプはリストの他の作品「ラ・カンパネラ」で見られる技術と似ていますが、さらに速度と距離が要求されます。これらのジャンプは最大で13ステップ(2オクターブ半)にも及ぶことがあります。さらに高速な半音階を第3、第4、第5指で演奏する技術や、左手での16分音符のジャンプも演奏者には難易度が高いとされています。
また、この曲には興味深い歴史的背景もあります。
その簡易版がなぜ作られたのかは定かではありませんが、リストがアマチュアのためのバージョンを提供したかった可能性があります。さらに、ヨハン・シュトラウス・シニアがこの曲のメロディーを彼のダンス作品に取り入れたこともこの曲の普及に一役買っているかもしれません。リストはシュトラウスのダンス音楽のファンであり、彼の作品をサポートすることでより広い聴衆に自身の音楽を届けようとしたのかもしれません。
このように「半音階的大ギャロップ」はその技術的な要求の高さと歴史的な背景から、ピアノ音楽の中でも特別な存在となっています。ピアニストにとっては挑戦的な作品でありながら、その華やかさとエネルギーは今日でも多くの人々を楽しませています。
名曲6 慰めの曲(コンソレーション) 第3番変ニ長調
フランツ・リストの「コンソレーション」はピアニストが内面の感情を表現するための、6つの小品から成る組曲です。この組曲はリストが大スターピアニストとしての虚しさや、恋人カロリーネ・ヴィットゲン伯爵夫人との複雑な関係による心の動揺を背景に持ちながら作曲されました。
その中でも特に第3番変ニ長調はその静かで物憂げな旋律が多くの人々に愛されています。
リストの作品には度々華麗な技巧を要するものが多いですが、「コンソレーション」はそれらとは異なり、高度なテクニックを必要とせず、演奏者に心の内を静かに語りかけるような作品です。
各曲は数分で演奏できる短さながら、リストの深い感情が込められています。
第3番はこの組曲の中でも特に知名度が高く、その美しさはリストの他のピアノ曲と比較しても際立っています。演奏する際には派手な技巧よりも旋律の美しさをどう表現するかが重要で、演奏者の解釈によって多様な響きを見せます。ポツリポツリと音を拾いながら、まるで自分自身への慰めのように弾くことで、この曲の持つ独特の魅力を引き出すことができます。
名曲7 ファウスト交響曲
フランツ・リストが1857年9月5日にヴァイマールで初演した「ファウスト交響曲」は、彼の音楽活動の中でも重要な作品となっています。この作品は、ゲーテの「ファウスト」に深く影響を受けたもので、リストが音楽の都として愛したヴァイマールで生み出されました。彼はこの街を「ヴァイマール、理想の故郷」と呼び、音楽を通じてその魅力を世に広める役割を果たしました。
エクトル・ベルリオーズの「ファウストの劫罰」からインスピレーションを受けたリストは、ジェラール・ド・ネルヴァルによる「ファウスト」のフランス語訳を読み、ゲーテの作品に新たな視点からアプローチしました。
この交響曲はファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスの三つの楽章で構成され、各人物の心情や性格を音楽的に描写しています。
ファウストに捧げられた第1楽章では彼の知識への渇望や情熱、内面の葛藤が描かれ、グレートヒェンの純粋さと愛の物語が第2楽章で美しく表現されています。メフィストフェレスを題材にした第3楽章ではリスト独自の手法により、この悪魔的なキャラクターの醜悪さが音楽で巧みに表現されています。
最終的にテノール独唱と合唱によるフィナーレが「ファウスト2世」の言葉を引用し、「永遠の女性」の救済の力を讃えることで作品を締めくくります。
リストのこの交響曲は彼のプログラム音楽の探求と交響詩の成果を結集させた作品であり、ヴァイマールでの彼の音楽活動の集大成とも言えます。
ジョージ・エリオットとの出会いが彼のゲーテ作品への理解を深め、わずか2ヶ月で完成させたこの70分の大作は、リストの音楽におけるロマン主義的探求のクライマックスを象徴しています。
今日でも多くの人々に愛され、リストの音楽的遺産の中で重要な存在となっています。
名曲8 死の舞踏
トーテンタンツ、または「死の舞踏」は視覚芸術における長い伝統の一部であり、特にハンス・ホルバインの木版画シリーズに大きなインスピレーションを受けた作品です。ホルバインの作品では死がすべての人々に等しく訪れる様子が描かれており、その鋭い風刺は社会のあらゆる層に対する死の無差別な性質を浮き彫りにしています。
リストはこのテーマを音楽に転換し、中世の平叙歌「Dies irae」を用いて審判の日の恐怖を表現しています。
リストがピサのカンポサントを訪れた際、彼は『死の勝利』というフレスコ画に感銘を受けました。
この絵画は死の避けられない性質と、それがもたらす人生のはかなさを描いています。
リストはこの経験を通じてモーツァルトのレクイエムを思い出し、その影響を自身の作品に取り入れました。
トーテンタンツの作曲過程は長く複雑で、元々はホルバインの木版画とカンポサントのフレスコ画からインスピレーションを得た2つのピアノ曲を考えていましたが、最終的にはピアノと管弦楽のための作品として完成されました。この作品は死の舞踏の概念を探求し、その普遍性と不可避性を音楽を通じて表現しています。
リストはこのテーマを深く掘り下げ、聴衆に死という概念を新たな視点から考えさせることに成功しました。
1865年4月15日、リストの義理の息子であるハンス・フォン・ビューローが初演のソリストを務め、この作品は音楽史において重要な地位を確立しました。トーテンタンツはリストの創造力と革新性が光る作品であり、死の舞踏というテーマを通じて人間の存在とその終焉について深い洞察を与えています。
名曲9 「前奏曲(レ・プレリュード)」
フランツ・リストの「レ・プレリュード」は音楽と詩が融合したロマンチックな精神の表現であり、1856年に完成したこの作品は、人生の複雑さと美しさを描いた交響詩の傑作です。リストは音楽を通じて人間の感情の起伏、自然の力、そして人生の戦いを表現しています。この作品は「愛」「嵐」「田園」「戦い」という4つのセクションで構成されており、それぞれが人生の異なる段階や感情を象徴しています。
「レ・プレリュード」の開始部分は人生の不確かさと探求を象徴する疑問から始まります。
リストはC-B-Eという3つの音程を用いて、この探求の旅を音楽的に描写しています。愛のセクションではチェロとファゴットによるメロディーが、人生の魅力的な夜明けを表現します。
しかし、この平和は長くは続かず、嵐のセクションでは音楽は緊張と動揺に満ちた雰囲気へと移り変わります。この部分では弦楽器、木管楽器、金管楽器を駆使し、さらにはチューバやハープ、シンバルなどの特殊な楽器も使用して嵐の激しさを描き出しています。
嵐が過ぎ去ると「田園」のセクションで平和と静けさが訪れます。ここではオーボエとヴァイオリンが優しいメロディーを奏で、田園生活の静かな美しさを表現しています。しかし人間の心は静けさに長く留まることはできず「戦い」のセクションでは、トランペットのファンファーレが新たな戦いへの呼び声となります。このセクションでは、行進曲風のリズムと力強いメロディーが、人間が自己の力を取り戻し、勝利を収める様子を描いています。
リストは「レ・プレリュード」を通じて人生とは未知の歌への前奏曲であり、愛、試練、平和、そして再び挑戦へと続く永遠のサイクルであることを表現しています。彼の音楽は人生の各段階を象徴するモチーフの変奏と発展によって、この深い哲学的なメッセージを聴き手に伝えます。リストの「レ・プレリュード」は音楽が持つ表現力の幅広さと人間の感情の奥深さを見事に示しています。
名曲10 ハンガリー狂詩曲2番
フランツ・リストが19世紀中盤に作曲したハンガリー狂詩曲は、その中でも第2番嬰ハ短調が最も広く知られ、愛されています。
アカデミー賞受賞作品「トムのピアノコンサート」は有名で、名作アニメでもあるトムとジェリーの作品中でもピアニスト・トムが演奏しています。
この曲はリストが集めたマジャール人とロマーニ人の民俗メロディーを基にしており、彼の祖国への愛と、民族的熱狂の時代における文化的自負を表現しています。
ハンガリー狂詩曲第2番は独奏ピアノ用に作曲された後、フランツ・ドップラーによって管弦楽用に編曲されました。この曲はその後もピアノ二重奏版が追加されるなど、様々な形で演奏されてきました。
特にラースロー・テレキー伯爵への献呈作品としても知られています。
この曲の冒頭はハンガリーの民族舞曲の特徴である付点リズムが顕著に用いられ、Lassan(ハンガリー語でゆっくり)の部分から始まります。
この部分ではツィムバロム(ハンガリーを中心とする中欧・東欧地域で見られる大型の打弦楽器)を模した主題が現れ、その後、テンポが上がり、Friska(ハンガリー語で新鮮)へと移行します。Friskaでは、ジプシー音階風の様々な主題が次々と登場し、力強いヴィヴァーチェ(活発に)の主題へと展開していきます。
この部分では、リストが残した複数のカデンツァも随所に挿入され、演奏者の技巧を際立たせる機会を提供しています。
ハンガリー狂詩曲第2番はそのドラマチックな構成と民族的なメロディーにより、聴く者に独特な感情を引き起こします。また、ヴラディーミル・ホロヴィッツによるアレンジや、映画音楽としての使用など、幅広い分野で親しまれており、リストの作品の中でも特に人気の高い曲の一つと言えるでしょう。
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